今回の学力低下論争もそれの応用という面がある。
だから、どうやって学力の見方を変えるかという時に、データで示そうとした。
それから、新学力でも旧学力でもないとか、そういうことを言ったわけですよ」「現実に対する人々の見方みたいなものを決める」という点を説明してください。
データを出すということだけではないですね。
「データを出すことでもあるけれど、いわゆる調査から出てくる数量的なデータではない。
あの時には、人びとがどうしてこういう認識を形成するに至ったのかということを、歴史的な資料を使って丹念にたどったわけです。
いろいろな要素があるのだけれど、『ある時、それらが重なり合った時に全然違うものになってしまった』という話です。
ひとつ例をあげてもう少し具体的に言うと、昔から高校の職業科を差別するなんていけないと思っているのだけれど、1960年代初頭の政府の経済政策の中で、『能力主義』が強調された。
そういう政策に反対する考え方が、素朴な教育の差別意識と重なり合った。
その時に、能力主義差別の意識が明確なものになった、という話です。
たとえば、戦前だったら実業科と中学校、その間の差別意識みたいなものがずっとあった。
そこに、知能検査を持ち込んで個人の能力を計ってそれに見合った教育や職業をあてがおう、みたいな60年代の政策の考え方が出てきて、両者が合わさった時に、日本的な能力主義的差別感が誕生した。
つまり、それまでだったら、いちおう実業学校と中学校といったカテゴリーの違いがあって、そこで差別感を問題としていたのに、カテゴリーにかかわらず、個人間の小さな違いにまで、能力の差による差別の問題を持ち込もうとした。
そうなると、一点差だって『違う』と言えば、差別につながる、そういう序列意識への強烈な忌避感を生むわけですよ。
その結果、カテゴリーによる把握ができなくなる。
階層とつなげて議論する重要性も消えてしまう。
こういう意識がどうやってできるのかを歴史資料を使いながら、そのプロセスというか、メカニズムを明らかにしたつもりです。
詳しくは、『大衆教育社会のゆくえ』を読んでもらうとありかたい。
こういう考え方は、私は知識社会学と言っているけれど、社会学では社会的構築主義と言う人もいます。
人びとが物事を認識することか、いかに社会的につくられているのかを明らかにする手法です。
われわれが社会とかSとかを認識する時の、哲学でも何でもそうですけれど、当たり前のプロセスですよね。
オーエスについて聞かれたけど、なんて言ったらいいかわからなくて、もう一度オーエスのことを勉強したいと思いました。